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緊急更新

 投稿者:伊井暇幻  投稿日:2013年10月 6日(日)11時02分59秒
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  今回は馬琴忌を待たず1カ月早い更新となりました。末期癌で余命幾許ももないためです。まだまだ書きたいことは膨大にあるのですが、これも天なり命なり。おまけにパソコンのハードディスクが御釈迦寸前で、此方も末期状態。終わりは突然、そして一気に来るものだ。
今回は、232「小説比翼文のエロス」、233「男色は悪か」、234「一冊で三度楽しい」の3本を増補します。こんなことになるとは思ってもいなかったので、いつも通り御茶らけて男色に就いて書いてしまった。でも結局、私は男色家ではありません。妻を愛している。息子をも愛しているが、其の話は別。いや近世文物を扱うと、如何しても男色の話は避けられないってだけのことだったんです。パソコン通信の時代から15年以上になるかな、「伊井暇幻」の名跡を使ってきたけれども、まぁ人生そんなものかも。
皆様方に於かれましては、ご多幸ご健勝に。

■小説比翼文のエロス■
馬琴の最初期読本「小説比翼文」は、一筋縄ではいかない奇作だ。本文は変哲がない。実際に起きた大量辻斬り事件/平井権八一件を題材に採った、一連の文物に連なる。権八の父が番{つが}いの雉を射殺したことが息子に祟る。仏教的な因果応報譚の側面もある。活動年代がズレている播随院長兵衞と権八が、何故だか「絡む」けれども先行する文物も好んで絡めさせているから気にしない。因みに「絡む」内容は男色関係だ。平井権八や名古屋山三という名前は、威勢の良い美少年の代名詞/象徴のようなもので男色関係が付き物となる。美少年は、社会に於いて男の行動基準で動くけれども、セクシャリティーとしては男と別個であり、男女双方から欲望の対象とされる。擬似的な両性具有/アンドロギュノスである。小説比翼文の本文だけ読めば、目を惹く点は、上記因果応報の色彩を帯びたぐらいのことで、先行する芝居などをノベライズした程度のものだ。ただ其の「ノベライズ」のレベルが半端ではない。表面的なものではなく、歌舞伎そのものを文字に移し替えようとしている。
歌舞伎は、幕府の禁令によって、女優を有しない。一部の選ばれた男優が女性を演じる様式がハッテンした。美しい女形は、男にとって性欲対象であった。其れが女装して舞台に上がり、男と絡み合うのだ。単に「男」が女装して男と絡んでいるのではない。また女形は、平井{/白井}権八など美少年も演じ、男との男色関係も見せ付ける。男-美少年-女という、【三つの性】が流動化しているのだ。
小説比翼文では、男の中の男/播随院長兵衞と男色関係にある権八が女装して、遊女/小紫と性交に及ぶ。女装した男が女と性交する発想は、先行する中国小説{}にもあるようだが、当時の読者にとって歌舞伎で知られた平井権八物語で採用した点を見逃すことは出来ない。更に云えば、小説比翼文の「自叙」では権八と長兵衞が男色関係にあったと語られ、男の欲望を集めた歴代の女形が列挙されるが、「小紫」の名もある。元々権八物語に登場する遊女は小紫/濃紫だから小説比翼文に登場する小紫も女性である筈だけれども、「自叙」により、其の前提が揺るがされている。作中事実は女性でありながら、わざわざ「自叙」で小紫という女形の存在に言及し、動もすれば絶対化されがちなセクシャリティーというものに、疑問符を突き付けているのだ。其れは平井権八物語のストーリーのみならず、歌舞伎というものが醸す濃厚な妖しささえ、「ノベライズ」する試みではなかったか。

■男色は悪か■
父が番いの雉を殺したことによる因果応報をベースに、人間が固有の「弱さ」によって転落してゆく態を、小説比翼文は描いた。歌舞伎の世話物一般に見られる、或る種の「人間肯定」だ。誰だって否定されたくはない。観客・読者に媚びるなら、如斯き方向性もあり得るだろう。しかし馬琴は後に、「人間の弱さ」に対して必ずしも甘い態度をとらなくなる。八犬伝では、殺生禁断の場で魚を捕った糠助{犬飼現八実父}がおり同情すべき「弱さ」を見落としてはいないものの、小説比翼文で見せた甘さは見られない。
小説比翼文に於いて、主人公/平井権八が転落していく大きな画期は、播随院長兵衞と男色関係を結んだ瞬間だ。元々上方まで逃げる積もりが、長兵衞に引き留められ、遊女/小紫と出会う。後は、お定まりのコースを辿り、悪人/辻斬り犯へと転落していく。男色が、権八の人生を狂わせたと云える。しかし一方、積極的男色家/念者である長兵衞は最後まで男らしい善玉、少なくとも常識人として振る舞う。馬琴の男色に対する態度は、実の所ニュートラルである。
江戸期、権力/大名の居所で、政務を執る場を表、性行為を含む私的領域を奥と呼んだ。政治決定は表の議論によって進められるが、大名/主権者の内面は「奥」で形成されることがある。権力過程の表面は、男の世界であった。表の世界さえ我利我利亡者の化かし合いであるのに、男が奥に入り込んで主権者/大名と私的関係を結べば、「公」というものが滅茶苦茶になる。青砥藤綱摸稜案の「再篇摸稜案序」冒頭で馬琴は、「治天下之道、惟公而已。公、則胡越一家。私、則肝膽楚越。此古聖人所以視天下為一家」と宣言した。胡越/利害の反する者同士を、一家として組織するためには調整が必要だ。最小限ずつであっても人々の欲望を広く認めて調整する空間が「公」なんである。其処に支配者の「私」/恣意が入り込めば、調整は失敗する。背景には、儒学すなわち「私」/恣意を抑制することが「公」を主宰する支配者に強く求めるという思想が在った。
やがて八犬伝では、多用な庶民が「一家」として暮らせるよう、為政者/武士に極めて厳しい倫理を求めることになる。田原藩にあっては、家老格の渡辺崋山は為政者と同一化し藩士の俸禄を極限まで切り詰めることを考えたが、より下級の小姓格の者たちは俸禄の不足分を補うよう要求した。為政者/武士といっても階層/権限により意識が変わってくることは已むを得まいが、支配階級でありながら上位者へのみ責任を負うとの意識は、庶民に対する責任放棄と表裏一体だ。八犬伝刊行当時、江戸末期に於ける武家の頽廃は、既に「めっぺらぽんのすっぺらぽん」などで言及した。八犬伝は飽くまで、支配階級/武家に対して「甘えるな」と云っているのみである。別に犬士並の倫理観を庶民に求めているものではない。
小説比翼文{享和四/文化元/一八〇四年}段階で、ただ【欲望に引かれる人間の弱さ】を肯定していた馬琴は、其れを肯定する読者が多いと想定しつつも、否定して社会を前へ進めようという強い意志を持つに至った。まさに【欲望に引かれる人間の弱さ】から脱皮し、より強固な勧善懲悪指向へと成長したのだ。{お粗末様}

■一冊で三度楽しい■
馬琴の「六冊懸徳用草紙」は意欲的な作品といえる。分類としては、五丁三冊の草双紙であって、本来シリアスな物語の場ではない。しかし上段で読本っぽい「五大力」物語を語り、下段は各頁毎、掌編笑話を載せている。上下段で別物であり、だからこそ三冊でありながら「六冊懸徳用草紙」なのだ。一冊で二度面白い、というのだろう。しかし冗談で……いや、上段でシリアス・ストーリーを語り、其の場面に関連した笑話を下段で対照させる形だから、結果として【第三の流れ】が発生する。まずシリアス・ストーリー、そして各場面を悪茶化す笑話、其の結果として悪茶化されたシリアス・ストーリーとの三点セットになるのだ。
実はシリアス・ストーリー「五大力」は、建部綾足の西山物語を、やや省略しながらも精確に模したものだ。西山物語は、妹と恋人の結婚を拒絶した相手方当主の面前で、妹を斬殺した事件{/源太騒動}を題材に採っている。此の実際に起きた事件は一応、二夫に見えず、を地で行った椿事であって、武家倫理の貫徹という側面が、世情の喝采を浴びたらしい。綾足も感心したから短期間で西山物語を書き上げたわけだが、事件に大きく脚色を加えた。其れが「五大力」そのものの西山物語である。源太騒動は、淫乱な妹に対し親権を行使した私刑事件として処理された。兄は無罪となった。やはり事件に関心を持っていた上田秋成が後年、犯人である兄と面会し、事件を忠実に再現した「ますらを物語」を書いた。芝居掛かった脚色を加えた西山物語は、事件に込められた武家倫理を冒涜するものだと感じたのだ。
馬琴の「六冊懸徳用草紙」は、西山物語を悪茶化していることになる。秋成と同様の感慨を抱いたのかもしれない。しかし馬琴は、勧善懲悪を掲げる読本作家を志していた。西山物語を悪茶化しながら、そのような悪茶化しが差し込まれない、より鍛えられ隙のない倫理の精華を夢見たに違いない。しかし「六冊懸徳用草紙」を刊行した享和二{一八〇二}年、まだ読本発表の立場を得ておらず、草双紙らしく悪茶化すことしか出来なかったのではないか。そうして見ると、「六冊懸徳用草紙」は、倫理というものを重視する馬琴の態度もしくは読本指向が強く表れた作品のように思えてくる。

http://lovekeno.iza-yoi.net/inu_ind.htm

 
 
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